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朧迷
春先なのに、何故か寝苦しい夜だった。
何がどう寝苦しいのかわからない。
ここ最近続く微熱のせいか、何かにせき立てられるように忙しく働いているための過労か、あるいは何か病を患っているのか。
だが、司馬昭には考える時間など無かった。
あと少し、少しだけ待ってくれ・・・と心のどこかが叫んでいる。
微熱にぼうっとする頭。
このような状態は何年、いや何十年ぶりだろうか。
そんなことを思いながら、身体を起こさず、牀の上から周りを見る。
うるさいので妻も侍女たちも、皆遠ざけている。無言の心配すら今の司馬昭には重圧に感じるのだ。
ぼんやりとした重苦しい闇の中でとくに目に入るものは無い。
はっきりと何かが見えるわけではないが、かといって何も見えない闇ではない。月の光のせいだろうか。
そもそも、今は真夜中なのか、明け方に近いのか、それすらもよくわからなかった。
重苦しい空気から逃れようと、寝返りをうつ。
その時、ふと、冷たい風がほほをなでた・・・いままで、まったく動くことの無かった重苦しい空気の中で。
誰かが扉を開けたらしい。
ふわりと、花のような甘い香りが部屋に流れ込む。
庭に、こんな香りのする花でもあっただろうか?
・・・誰だ、いま時分に・・・
身を起こすことなく、そちら・・・風が入ってきた方に視線を向けると、そこにはぼんやりとだが、人影が浮かんでいた。
その白い影は、足音もなく司馬昭の方に近づいてくる。
「誰だ?」
いらだたしい声を上げると、くすっ・・・と笑う声。
司馬昭はぎょっとした。
司馬昭の不機嫌な声に笑い返す人間などそうはいない。
だからこそ、司馬昭にはそれが誰だか解ったのだが、ぎょっとしたのはそれはあり得ない者の笑い声だったから。
声の主は死んでいるはず。
そんな司馬昭の困惑をよそに、白い影は牀に近づき、そして、座った。
司馬昭は身を起こそうとしたが、やんわりとそれを制止するかのようい、白い影の手が司馬昭の額に触れた。
諦めたようなため息をつき、司馬昭は話しかける。
相手がこの世の者ではないと解っても、不思議と怖くはなかった。
「・・・迎えならもうちょっと待って欲しいのだが。」
「どうしましょうねえ?」
生前と同じ、澄んだよく通る声。笑いを含んだ楽しげな声は、でもこの世には無いはずの声。
覚悟を決めて視線を向けると、その者はにっこりと笑って司馬昭を見下ろした。
その者のそういう、至福に満ちた笑顔を見るのは何年ぶりだっただろうか。
「士季だな。」
「そうですよ。・・・どうしたんですか、こんなになってしまって。」
耳に届く懐かしい声は、すでに死んだ鍾会のもの・・・あり得ない事とは解っている。だが、これが夢とも思えなかった。
夢でなければ幽鬼である。それでもやはり、恐ろしい気はしなかった。
「少しすぐれないだけだ。」
「そう? もう何日も微熱が続いてるでしょう。・・・子上様、少し無理してません?」
心配そうに眉根を寄せて、司馬昭の頬を指先で撫で続ける。
死んでいたのかさえ忘れるような、自然な愛撫と自然な会話。
「なんだ、説教か?」
「違いますよ。・・・あまりに見ていられなくて出てきたんですよ。」
そう言い終わる前に、司馬昭は鍾会の手首をつかみ、上半身を起こした。
そして、そのまま鍾会を自分の方へ強く引く。
鍾会は、そのまま倒れ込むように司馬昭の腕に抱かれる形となった。
「ああ、子上様だ・・・」
嬉しそうな声に、司馬昭の方が拍子抜けしてしまう。
満月の光が煌々と下界を照らす。
小さな窓からの光に、ぼんやりと浮き上がる鍾会の美貌は生前と変わりがない。
長いまつげが影を付けた黒目がちの瞳がまっすぐに司馬昭を見つめる。
むしろ、どこか優しげな表情にすら見えた。
「お前、私を恨んでたんじゃないのか?」
「かもしれないけど。」
鍾会は司馬昭の首に腕を回し、顔を傾けて口づけを強請った。
その甘ったれた態度に、それでも司馬昭は嬉しくなった。
そう、昔はこうだった。
優しく口づけを交わしながら、司馬昭はおぼろげに思い出す。
鍾会の事など、そういえば成都のあのとき以降、考えたことなど無かった。それは意識的に考えないようにしてたには違いないが。
柔らかい唇から、ふと、先ほどの甘い香りが広がる。・・・なんの香りだろう?
「嘘。」
「え?」
「恨んでなんかいませんよ、子上様。」
笑うと、鍾会は司馬昭の胸に顔を埋めた。嬉しくてたまらないという様子が伝わってくる。
その後しばらくは、無言で抱き合ったままだった。
微熱のある司馬昭に、鍾会の体は冷たく心地よい。
まるで、夜の空気のような実体の無い冷たさは、司馬昭を妙に安堵させた。
鼻腔をくすぐる甘い香りに、思わず鍾会の髪を指先に絡ませ、口づけてしまう。
「・・・でも・・・可哀想だけど、もうすぐだよ。」
「・・・・・・」
「それは誰が決めるわけでもない、天命だから。」
鍾会はそう言って、今度は司馬昭の髪を撫でた。
「私は嬉しいけれど。・・・私の今いるところに、子上様は必ず来るからね。」
「だろうな。」
頷くと、鍾会の首筋に唇を押し当てた。それが天国か地獄か、聞くまでもないし尋ねる意味もない。
もっと触れたいと思い、帯を解こうとする。
「・・・私は死人ですよ。そういうことをすれば、体に障ります」
「かまわん。どうせ長くはないんだろう?それとも、嫌なのか?」
「はい。」
鍾会の返事に、司馬昭は驚いて彼の顔を見た。
どこか哀しげな目で、だが生前は見たことがないような優しい微笑の彼が言う。
「あなたの寿命をこれ以上縮めるのは嫌です。」
「かまわんよ。どうせ長くはないとお前も言ったじゃないか。」
「・・・皇帝になれませんよ・・・」
哀しげな声で呟いたが、すぐに唇をふさがれてしまった。
甘い香り、そしてふわりとした、甘い味。
耳たぶを軽く噛まれ、鍾会は目を細めた。
ああ、そう、こうして欲しくて迷ったんだよね、私は・・・。
いまだって、司馬昭を責めることは出来る。皇帝になれなくていいなんて弱音・・・では、そのために死んだ者たちは一体?と。
でも、彼を目の前に見てしまったらそんな気は起きなかった。
もう、なんでも許してしまおうと、そんな気分にしかならない。
柔らかい、生きている者の唇と舌の感触は、死んだ彼にとっても気持ちの良いものであった。
纏い付く衣をするりと脱ぎ去り、月明かりの中でその身を晒す。
そう、月は死人に優しい。この世の住民でない者を美しくその空間に映し出してくれる。
本当はもう肉体など無いはずなのにそれを補完してくれる。
こうして感覚までよみがえらせ、死者の欲望すら叶えてくれる。
鍾会は、司馬昭の肩に軽く爪を立てた。
「どうした?」
「夢でない証拠を。」
いたずらっぽく笑う鍾会は、生前のまま。
司馬昭もきつく、首筋を吸ってみる。
だが、いつもなら赤い痣となって白い肌に浮かび司馬昭を喜ばせるその痕だけはいつもと違った。
青みの強い痕。
白い肌に浮かぶ青。
・・・ああ、やはりもう人間ではないんだな・・・
青白く不気味なはずのその姿。それでも、鍾会だと思うと嬉しい。
・・・こんな気持ちがあったのか、自分に。
ふっと、自嘲するように笑った。
「子上様?」
「・・・なんでもない・・・」
司馬昭は呟くと、さらに痕を付けながら鍾会の身体を確認していく。
確かに、生きていた頃とは違う。だが、暖かみも血の流れもなくとも、その身体は鍾会の身体であった。
愛おしむように、強く抱きしめながら思わず呟く。
「このまま連れて行ってもいいんだぞ?」
「それは駄目です。」
鍾会はにこりと笑って答えた。
「もう少し、生きているあなたを見たいから。」
それは、ただ焦らしているのか、それとも本心なのか。
だがどうでもよかった。
司馬昭は弱音を一瞬にして流され、少々むっとした様子だったが。
甘い花の香りが体中を取り巻く。覚えのない様な、懐かしいようなそんな香り。
鍾会は甘い吐息を漏らし、潤んだ目を向けてくる。
この身体を蹂躙し存分に味わいたい・・・お互いが、欲している事が解る。
その上、お互いが相手を焦らし、さらに楽しもうという欲求。
唇と指、そして舌でお互いに触れながら・・・いつもは何を持っていたのだろうか。
今は、相手に対する思いしか、お互いが思いつかなかった。
それは、愛情だけでは無かったかもしれない。
その中には憎しみや絶望も含まれているはずだったが・・・
「子上様・・・・っ・・・・」
愛してますよ、私は、ずっと。
いいえ、昔から、そして今後もずっと。
そう囁いたのか、あるいは幻聴だったのか。
・・・なんで、死んだんだ?
それも、幻聴かもしれない。
その言葉の向こうには何が含まれているのだろう。
「あぁ・・・もっと・・・もっと強く・・・」
「ああ、士季。解ってる・・・」
お前のことは、誰よりも。
それが愛なのか、独占欲なのか、単なる執着なのか解らなかった。
だが、愛は執着を美化した言葉。
それなら、それでいい。それだって、愛には変わらないのだから。
激しく、そして優しく愛し合った。
これほど互いに優しく、そして思いやりのある交歓などいままであったのだろうか。
鍾会の髪を指先で梳きながら、司馬昭はその髪にも口づけてみる。
艶やかな漆黒の髪。
いまでもなんら、変わることがない。
その感触の心地よさに、司馬昭はずっとその髪を撫で続けていた。
月が西の空に傾いている・・・それは、司馬昭にはわからない。
だが、すでに夜の住人である鍾会は、名残惜しそうに司馬昭の指に自分の指を絡ませながら呟いた。
「・・・夜明けですね・・・」
「そうか。」
「・・・子上様、しばしのお別れですね。」
「迎えに来るんだろう?」
「さあ・・・どうしようかな?」
からかうように鍾会が言うと。
「来い。お前でなければ行かん。」
そういって、顔を背けた。
「・・・子上様のお席を作ってお待ちしておりますよ。」
少しだけ楽しげに鍾会はそう言うと体をゆっくりと起こした。
「さあ、お休みください・・・」
鍾会はそういって、司馬昭が目を閉じるように、額からまぶたにかけて手のひらですうっと撫でた。
いままでの事が嘘のように、眠りにつく司馬昭。
微熱は下がったかもしれない。だが、明らかに、生きている彼の生気を奪い取ったのを鍾会は感じた。
・・・子上様、ごめんなさい。
哀しげな目で見下ろす。
こうなることは解っていた。
鍾会は、眠ってしまった司馬昭の頬をいつまでも撫でていた。
その目には、うっすらと涙が浮かんでいる。
長いつきあいだ。こんな状況で会いに来ても、絶対に自分を抱いてくれると思った。
そして、それによって寿命が縮むことも解っていた。
何より、幽鬼の気はすべてに悪影響を及ぼすことも解っている。健康体をも病気にする。まして、すでにあちこちが蝕まれていて、気力だけで生きている状態に近い司馬昭に及ぼした影響を考えると、あやまらずにはいられない。
もって、秋まで・・・。
・・・でも、子上様、愛してる・・・もう、あなたのいない世界は嫌です・・・秋までだって、長すぎる。
鍾会は名残惜しげに見ていたが、やがて立ち上がった。
もう日の光が地上に現れる。。
魑魅魍魎の時間は終わる。浅ましい姿を光の下に晒すのだけは嫌だ。
それでももう一度かがみ込むと、司馬昭の唇にそっと触れた。
狂おしいほど愛しい、という感覚をはじめて知ったのが、死んだ後だったなんて。
思わず笑った。
とっくに知っていたけど、いつか来る別れのために、知らないふりをし続けていた自分の心の弱さに。
司馬昭が目を覚ましたのは、もう昼近くだった。
不思議と熱は下がっていた。だが、淀んだ疲れが体中を支配している。
血の流れすらおかしい気がする。
だが、少し落ち着いた気持ちになっていた。
「・・・ふう・・・・」
ため息をついた。
野心のための道具と言い聞かせていたのは、自分にだったのかもしれない。
こんなにも、捕らわれていたのだと今更思い知ったが、不思議と優しい気持ちになっている。
そう、多分、これ以上この世で自分は何も出来ないのだ・・・それが、こんなに開放的なものとは、知らなかった。
昔はこんな気持ちだった気がする。いったい、いつ変わってしまったのだろう。
皇帝にはなれないよ・・・という言葉。
そして夕べでさらに寿命は縮められた。
「あと少し・・・か・・・」
澄み切った空を見て、それでも名残惜しそうな声を出してみる。
だが、この鮮やかな世界を捨ててもいいと思える存在が自分にあったことに、あらためて驚いた。
ふと、昨夜の残り香を鼻腔に感じた。
何の香りであろう、その甘い香りはずっと彼の周囲を漂っていたのだった。
終 2007.02.14
いつもおなじみ死人ネタですが、今回だけは出来心です。たまにはすっごいラヴラヴな司馬昭×鍾会を書いてみたかったんです。あまあまです。やっぱりらぶらぶはいいね。幸せ万歳!(死んでるけど)
なんかこれでサイト閉じてもOKの幸せ内容だよネ!(嘘です)
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